睦ギャラリー

画家、原田睦(故)はピステのマダムシェフ、Marikoの大叔母にあたり、長年描きためられた作品の多くを現在、当館にて保管しています。総数150点余り。ピステの館内には、客室を含め60点を展示しています。原田睦と共にその作品の一部をご紹介します。

国画会々員  原田睦(はらだむつ)【1897-1984】

画家。両親は信州人。
1897年(明治30年)、鉄道省勤務の父・荒木勘次郎の赴任先、青森に生まれる。父の親友、牛原正孝の養女となり和歌や草花に親しんだ養祖父、牛原一和に可愛がられて育つ。幼少の頃から描くことを得意とし女医にしたいという養父母の願いを振り切って日本画の道へ。
1917年(大正6)、女子美術学校(現女子美術大学)卒。巽画会に出品し、松岡映丘から賞賛を受ける。

24歳で洋画家の原田恭平と結婚。山本鼎に師事し油彩画を学ぶ。梅原龍三郎からも洋画への道を勧められるが、夫を助け、子を生み育てる覚悟から創作を断念。しかし39歳で夫に先立たれてからは生活のため、羽二重、本しゅす、朝鮮麻などに、花や植物を描き二人の幼い娘を養育。一点ものの手描きの帯は、確かなデッサン力と美しい構図、デリケートな線と油絵の具の斬新な色彩により「お茶席によく合う」などと好評を得る。その後、染織家となった長女・麻那(国画会々員)のマネージメント一切を担当し織物の外商に奔走。次女・南は画家となり渡米。
二人の娘を一人前にした後、55歳を過ぎてから本格的に絵画に専心。扱い慣れていた顔彩(岩絵具や墨など日本画の絵の具)で洋画を次々描き、画家として精力的な創作活動を再開した。画材の効果を巧く生かした画面は、さまざまな色彩が交錯する重厚で深淵な世界を生み出す。
1957年、60歳で初めて国展に出品し入選。女流展「T婦人賞」受賞。翌年、銀座の文春画廊で初の個展開催。
1959年、女流画家協会々員に推される。
1966年、茨城県笠間市芸術村に転居。国画会々友に推される。現代日本美術展入選。
1972年、国画会々員に推される。女流画家協会展「孔雀賞」受賞。
1984年、88歳で八十八歳記念自選展開催。同画集刊行。同年、心穏やかに他界。

ミロが大好きな童女のようなおばあちゃん画家。展覧会への道すがら「うれしくて、うれしくて “♪ミロさん、ミロさん、こんにちは。♪ミロさん、ミロさん、こんにちは ”と歌いながら日本橋の裏通りを歩いていたら、電信柱にぶつかりそう になっちゃった」と、ある日。

<原田睦のルーツ>
「織部焼き」の創始者といわれ、茶の湯の名人として高名な 戦国武将「古田織部」の子孫でもあります。

西洋スタイルで描く東洋の精神性静謐と情熱のシンクロニシティ

太陽や月、山や海をモチーフに、あるいは宇宙に至る壮大な具象を曼荼羅的形式へと置き換え、深妙な心象風景の世界に到達。窓からの眺めさえも、余情ある抽象に置き換え表現しています。若く瑞々しいその作風は、自然と融合する力強さにあふれ「朴にして優、優にして雅、雅にして純である」と表現されました。素朴のなかに広がる迫力の色彩と造形は、そのマチエールも含めて、原田睦自身の存在の実像、内面の無邪気 、無心の表現ともとれるのではないでしょうか。

ピステでは、澄んだ空気の中、雄大な自然に抱かれるのと同じような感覚で、何気なく画を眺め、心にゆとりを取り戻していただきたいとの思いから、作品を館内や各客室に展示しています。時空を貫く大きな流れ、天衣無縫の魂、純粋無垢なまなざし・・・。心に響く何かをそっと感じ、おくつろぎいただければ幸いです。
ご希望により販売もしています。(販売出来ない物もありますのでお問い合わせ下さい)